子バカ

ご無沙汰でした、久々の更新です。


先週火曜日、実家の父が亡くなりました。
入院してたった3日、急激に進行した癌とはいえ、あまりにあっけない最期でした。
母が亡くなってからの3年間、毎日のように実家に通って父の面倒をみた私としては、寂しさや虚しさ、これから毎日どう過ごせばいいのか、ちょっと途方にくれています。
気持ちを整理するため、ここに父のことを書きたいと思います。
父への追悼になればいいな、と。
長い長い自分語り、ウザくてごめんなさい!



「親バカ」という言葉があります。
辞書には「わが子かわいさのあまり、子供の的確な評価ができないで、他人から見ると愚かに思える行動をすること」とあります。
その逆で、子が親に対してそういう行動をするのは「子バカ」とでも言えばいいんでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は父に叱られた記憶がありません。
「嘘だー」と思われるかもしれませんが、食事中にテーブルに肘をついたりして注意されるくらいのことはあっても、「そんなことするんじゃないよ」という言葉以外の小言を言われたことはありませんでした。
幼稚園の頃に毎日「行きたくない」と泣いても、小学校で給食が食べられなくて居残りさせられても、高校で数学のテスト0点取っても、父は一切何も言いませんでした(母からしっかり報告は受けていたと思いますが)。
その代わり、母からは毎日のように何かしら叱られていましたが(笑)


成人してからも、彼氏と旅行に行ったり、会社の飲み会で午前様になったりしても、帰宅するまで起きて待っていてくれて「無事に帰ってきて良かった」と私を迎えるだけでした
そうなると私もあまり父に心配かけることができず「あんまりムチャなことはしちゃいかんなー」と思うようになりました。
無言の圧力ってやつですね。
でもそこには父なりの愛情を感じることができ、感情的に怒る母とは対照的でした。
もちろん、母の心配も子供を思うからこそですが。
結婚する時も、相手の職業や、すぐに外国暮らしが始まることなど、言いたいことはたくさんあったと思います。
それでも「娘を絶対に不幸にしないと約束して欲しい」と、夫に言っただけでした。


学生時代だったか社会人になってからだったか、父にこう言われた記憶があります。
「自分の思うように生きなさい。自分で責任が取れるなら、何をやってもいいんだよ。万が一何かあったら、パパが親として最後まで守ってあげるから」と。
その時も感動したのですが、今もそれは私の心に深く残っている言葉です。
亡くなった直後に、ドラマのようにクサいセリフだけれど「パパの子供で幸せでした、ありがとう」と自然と言えたのは、この言葉のせいだった気がします。


父は母と結婚してすぐに自分で事業を起こし、そこそこ成功したおかげで私は何不自由ない子供時代を過ごし、成人してからも自由気ままに生きてきました。
父の偉大さに気付いたのは、自分が結婚して子供を育て始めてからです。
親が、どんなに子供を慈しみ、苦労して育ててくれたか、これは実際に自分が親の立場になってみないとなかなか実感できないものです。


三年前に、母がガンで他界しました。
父は若い頃はゴルフ、麻雀、外国旅行、女遊びなど、したい放題で母を泣かせていたのですが、私に子供が生まれて「おじいちゃん」になった頃からすっかり好々爺に変身していました。
もともとお人好しで、お山の大将が好きな父は、若い頃からたくさんの人に慕われていました。
母が病んでからは、それに拍車かかかり、本来の優しくて情深い性格が前面に出ていたと思います。
結局、母は余命半年と診断されたにもかかわらず、手術後5年間も元気で過ごしました。
その間、父は私の力も借りながら一生懸命に母の残された時間を大切にしていました。


とうとう母が亡くなった時、父は生きる気力を失い、毎日泣いてばかりでした。
私はそれから毎日のように片道30分の実家に通い、父の世話をしてきました。
小さい頃、あまり家にいることもなく「一家の大黒柱」としての威厳のようなものを感じ、いつも少しだけ遠慮して接していた父に「あなたが来てくれるから生きていられるんだよ、ありがとうね」と言われるのは、とても不思議だし少しだけくすぐったかったです。
いわゆるジェントルマンを気取る父は私に対して必ず「タエコ(仮名)ちゃん」と呼びかけました。
母も私を呼び捨てにはせず「タエコちゃん」と呼んでいたし、特に父は私を最後までレディとして扱ってくれていました。
「タエコちゃん、○○してちょうだい」と私に呼び掛ける声を、今とても恋しく思います。


その後、亡くなった母のために小さな観音像を彫ったり、母を偲ぶ短歌集を作ったり、ここ一年くらいはデアゴスティーニゼロ戦に挑戦したり、難易度の高いナンクロを解くのが日課でした。
車の運転も好きで、持病の肺気腫のために病院へ検査に行くのも、必ず私を助手席に乗せて連れて行ってくれました。
今まで病気らしい病気をしたことがなかった父なので、内心「これはもしかして徘徊老人になって…毎日警察のお世話かしら…」なんて考えていたくらい元気でした。


そんな父が、6月の初旬に急に体調を崩しました。
運転免許の書き換えに行ったら「疲れて立っていられない」と言い出したのです。
その日から「頭が痛い」「胃が重い」「首の後ろがちくちくして眠れない」「何も食べたくない」など、何かしら不調を訴える日が続くようになりました。


最初の頃は本人も周りも、すぐに回復すると思っていました。
が、実はその時には既に肺がんが猛烈な勢いで父の身体中を襲っていたのです。
実際、病院で受けた検査では「もう少し進行すると余命宣告になります。他臓器への転移も認められます。が、お歳も召しているので進行はそれほど早くないかもしれません」と言われ、本人には内緒でしたが手術は不可能、治療も苦痛を招くだけなので、もしもの時は緩和の方向でと決めていました。
それでも父は「まだまだこれを乗り切れば大丈夫」と言い続けていたし、私もそう信じて毎日実家に通っていました。
実際、7月半ばまでは食欲もあり、苦しそうではあっても、自分ことは自分でなんとかできていました。


しかし7月半ばには自分でトイレに行くのもやっとになってしまいました。
それまではかろうじて残っていた食欲も急速に衰え、呼吸も肩でするようになったある日、私はとうとう救急車を要請しました。
まだ意識もしっかりしていて、救急隊のかたに「すみませんねえ」などとお礼を言っていたのですが、実際はかなり重篤でした。
その前の日に、トイレから私がベッドに連れ帰って寝かせた時に、荒い息で「ハルエ(仮名/母のこと)が亡くなって三年か」と言うので「そうだね」と答えると、独り言のように「ああ、可愛そうなことをしたなあ。もう寂しい思いはさせないからね」とつぶやいたのです。
私はびっくりして「おじいちゃんたら、何言ってんのよ、やだなー」と言いながらも涙が出て困ってしまいました。
思えば、あの時に死を覚悟していたのかもしれません。


入院してからは、父の病状は少し落ち着いたように見えたし、私も病院にお任せしたことによってだいぶ安心しました。
呼吸はかなり苦しそうで、酸素マスクをはずせない状況でしたが「今日はオチンチンに管入れられちゃったよ」と尿管カテーテルのことを言うので「あはは、おじいちゃん生まれて初めてだもんねー、そういうの」と二人で笑ったりしたくらいです。
夜になると「あなたはもう帰りなさい」と言って帰らせようとする父の、パンパンにむくんでしまった足をマッサージしながら「まだ大丈夫だからいるよー」なんて言って面会時間ぎりぎりまでいることが、私のできるすべてでした。
これから一ヶ月くらい頑張ってくれるだろうと思っていました。
それなのに、そんな日を過ごせたのは、たった二日間だけだとは。
入院して三日目に、あっけなく父は逝ってしまいました。
連絡を受けて駆け付けたとき、安らかな顔でしたがもう呼吸はしていませんでした。
私はあっけにとられるだけでした。
もっともっと看病したかったのに。
もう一回あの家に戻って、たとえオムツになってもいいから一緒にお昼ご飯食べたかったのに。
私に何の苦労もさせないで、父は黙って旅立ってしまいました。
いつもいつも「ありがとう、ありがとう」と言ってくれたけど、私まだ何もしてないよ。
かっこよすぎるよ、パパ。


大胆かつ繊細な精神と、しなやかな感性を持っていた父。
いつでもユーモアを忘れなかった父。
「ありがとう」は、私から百万回贈ります。
やっと会えたママと仲良くね。
またいつか会いましょう。